ウィーン旅行紀③
こんにちは、しんちゃんです。今回がウィーン旅行の本題であるグスタフ・クリムトという人についてのお話になっています。こちらは旅行紀③になってますので、①②は以下をご覧ください。
shinchan-netherlands-belgium.hatenablog.com
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グスタフ・クリムトを理解する
オーストリアのウィーンではグスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862-1918)(以下、クリムト)という有名な画家さんの絵画を多く見ることができます。ベルヴェデーレ宮殿、レオポルド美術館、ウィーン分離派会館という3箇所に足を運び、クリムトの作品をひたすらに見学してきました。
上がクリムトの写真ですが、だいぶ変わった雰囲気なのが既に伝わってきますよね(笑)。まずは、クリムトの人生をざーっくり年表でご紹介。
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1862年 - ウィーンにて生まれる
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1876年 - オーストリア芸術産業博物館付属工芸美術学校入学
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1883年 - 弟、同級生らと芸術家商会を設立
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1886年 - ウィーンのブルク劇場の階段ホールの壁画装飾を請け負う
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1891年 - ウィーン美術家組合(現在のキュンストラーハウス)に加入
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1897年 - ウィーン分離派の結成と初代会長就任
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1902年 - ベートーヴェン・フリーズを作成
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1905年 - ウィーン分離派を脱退
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1918年 - 脳卒中に倒れ死去
「ウィーン美術家組合」と「ウィーン分離派」
クリムトを紹介する際にこの2つをお話しないわけにはいきません。1800年代後半にウィーン美術家組合からキュンストラーハウスという団体が生まれ、クリムトは1891年にこの団体に加入をしました。このキュンストラーハウスはいわば、当時のウィーン芸術の中心的な位置にありました。
しかしながら、たった6年でキュンストラーハウスを脱退しまうクリムトです。これは、若い芸術家が歴史主義で保守的なキュンストラーハウスに不満を持つようになったのが理由になります。そこでクリムトは1897年、保守的なキュンストラーハウスを脱退し新しい芸術を表現する「ウィーン分離派」の創始者の一人となりました。
「昔ながらの芸術ではなくて、もっと自由にやらせてくれ!」といった感じでしょう。
このウィーン分離派のメンバーは絵画のみならず多様なジャンルにわたり、歴史主義的な伝統から分離をし、新しい芸術を作りたいという共通の想いがありました。この分離派会館の入口にも「芸術は自由である」などという言葉が掲げられています。
例えば分離派会館に展示がされている壁画「ベートーヴェン・フリーズ」。これは、1902年にウィーン分離派により開かれたベートーヴェンに捧げる展覧会の目玉で、クリムトはベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにして作成しているのだそうです。横の長さが30m以上あり、様々な絵が描かれています。一般的な絵画とは違った、音楽と絵画の融合的な作品です。保守的な絵画とは異なる異質の作品とも言えるでしょう。
ところで「昔ながらの芸術ではなくて、もっと自由にやらせてくれ!」という類の話はフランスのパリでも起きていて、その代表的な人物がクロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)です。「印象・日の出」の出世作が有名ですが、印象派という新たな芸術の世界を切り開いた人物でした。
印象派とは、1870年代前後にブームになったグループで、いわゆるアカデミックな絵画のルールを無視したものでした。つまり、それ以前の、例えば貴族から依頼を受ける典型的な肖像画や、宗教画、写実的な絵画ではなく、もっと自由に描き、風景や一般の市民なども描いていこう!という流れです。これには、産業革命により人々が豊かになったことや技術の進歩などが背景にあったのだそうです。例えば以下の絵画は非常に有名な作品。
彼らが自主的に開いたパリの展覧会は当時、評判も上がらず大変だったようですが、今では非常に人気ですよね。これに影響を受けたのが、ポスト印象派と呼ばれるゴッホという訳です。
なぜこの話をするかと言うと、この印象派の影響を受けているのがウィーン分離派であり、クリムトもその一人です。印象派が流行り始めたのが1870年代あたりなので、20年前後遅れる形でオーストリアに、それと似たような運動「新たな芸術を!」という動きが起こったということになります。
「パリでは新たな芸術の動きが20年も前に起こっているのに、なぜこのオーストリアではまだこんな昔ながらのことをやっているのだ(不満)!」というのが当時のオーストリアの芸術家達の想いなのでしょう。
印象派がジャポニズム(この頃パリで流行った日本の絵画や文化のこと)の影響を受け、そしてゴッホがこの印象派の影響を受けた訳なので、ウィーン分離派もそこに関連しているということになります。
例えば以下の作品はベルヴェデーレ宮殿で見かけたクリムトの作品です。ゴッホの作品に似てるような、パリの印象派絵画に似ているような。。。
その他、アール・ヌーヴォー(花、植物などがモチーフとなり曲線を組み合わせる新たなスタイル)が基調になっていたのもウィーン分離派の特徴です。アール・ヌーヴォーと言えば、ベルギーには有名なビクトール・オルタという建築家がいますが、日本で人気のチェコの画家さん「ミュシャ」が代表的でしょう。以前プラハに行って来た時の写真を以下に貼っておきますね。
今回の旅行での最大の失態は、このアール・ヌーヴォーとの関連がたくさん展示してあった所をささーっとスルーしていたことです(笑)。すみません。ということでアール・ヌーヴォーっぽい写真がありません。
いづれにせよ、このクリムトという画家が世紀末の新しい芸術誕生の時期を生き抜いていた人というのがよく分かります。
女性を描いた画家クリムト
そして最後に、クリムトは女性を描いた画家として有名で、女性の絵画が多いです。女性関係では婚外子が14人いたと言われていたり、モデルの女性がアトリエに出入りし、彼女達とも関係があったりと、色々な噂があるようです。彼の作品は肖像画や風景画、神話画など様々ですが、女性が描かれていることが多いです。
クリムトを理解するために本を一冊買ってザッと流し読みしましたが、そこに書かれていたことはおおよそ以下のような感じです。
クリムトが活躍した時期は「男性と女性」という性の役割が変化を迎えていた時期であります。つまりこの時代は、依然としてはびこる家父長制により女性が抑圧され、それによって女性解放運動というのが起こり始めた時期でした。
心理学者、精神分析家、哲学者などが、女性を研究対象とし「女性は社会秩序を乱す存在で、脅威である」とされ、悪魔に例えられることさえあったと言います。
男性は権力喪失への不安やアイデンティティを巡る葛藤がありました。今を生きる我々からすると理解に苦しむ点も多いですが、100年前はこんな世の中であった訳なのです。
クリムトはまさに、この時代を生きていた人であり「女性という謎」をテーマに芸術作品を作り上げた人なのです。
さて、今日はここまで。長くなりすぎるので次回にします。でも、クリムトがどんな感じなのか多少、お分かり頂けたのではないでしょうか?
次回はクリムト作品のエロティックな様や死について、その他のウィーン分離派の絵画のお話。まとめます。
*ところで、このウィーンの絵画に関するブログが、しんちゃんブログの中では最も難解な内容になっています(笑)。まさか、この内容を旅行に行ってささーっと書けるはずもなく、ガッツリ勉強しながら書いているのです(笑)。
ではでは皆さま、引き続き宜しくお願い致します!Be Happy with Happy ! ハッピーツアー オランダ&ベルギーの手がけるプライベートツアーは以下からご覧ください。